アウディとは?歴史から見る特徴と車種一覧

Audiの歴史・Audiの歴史から見るマークが4輪なわけ

Audiの歴史〜Audiが4輪なわけ〜という事で今回はAudiのマークが4輪なわけをまずはアウディの創業者であるアウグスト・ホルヒから見ていこう。

創業者 アウグスト・ホルヒ

今日に至るAudiの創業者 アウグスト・ホルヒは自動車との関わりにおいて、28歳の時にベンツの門を叩いた。


そこでカール・ベンツの描く人馬一体となるガソリンとエンジンが有機的に一体化した自走車、つまり単なる移動手段としての乗り物ではなく、エンジンと車体の全てが噛み合って生きているかのような自動車を作るという物作りの真髄に触れた。

人馬一体というのはそれまでが馬での移動だったのでそれに置き換わる何かを探した時に、ただの機械ではつまらない、そこに心躍る何かや乗馬している時の高揚感や温もりをカール・ベンツは求めていたのではないかと思う。

それがアウグスト・ホルヒに、より活気ある走りをするとともに、人々を夢中にさせる何かを兼ね備え洗礼されたもの。単なる道具としてではなくそれ以上の何かを追求させ、今日のアウディに通ずるものを築いた。

アウグスト・ホルヒはベンツでの3年の歳月を経て、1899年1月、故郷のヴィンニンゲンに比較的近いケルンに、自動車製造のための工場を設立し、1年を費やして、自作のガソリンエンジン自動車を製作した。


そして1901年1月にアウグスト・ホルヒがはじめて設計したガソリン自動車がケルンの街を走ったのである。

 アウグスト・ホルヒは自動車作りにおいて、より良いものを作るという貪欲な姿勢を持っており、技術開発への資金投入に糸目をつけないアウグスト・ホルヒの姿勢に対し、経営陣は合理化を求め、創業から10年を経た1909年6月に2万マルクの和解金で会社を追い出されることになってしまった。

だが、簡単には諦めないこの男は、翌7月に「ホルヒ」の見える向かい側の土地に「アウグスト・ホルヒ自動車製造有限会社」を設立した。

しかし、「アウグスト・ホルヒ自動車製造株式会社」を名乗ってきた「ホルヒ」がそのことを許すことはなく、裁判所に提訴を行い、アウグスト・ホルヒは自分の名前を会社名に使うことができなくなってしまった。

そこで友人の助力をかりて思いついたのがラテン語で「聞こえる」の意味を持つ「アウディ」である。ドイツ語で「ホルヒ」とは聞くという意味であり、同じ意味がラテン語で「アウディ」であったため社名に採用した。

そうした経緯から「アウディ」が社名として誕生日したのである。

「アウディ」創業期である第1時世界大戦前の「アウディ」は「ホルヒ」を追い出されたアウクグスト・ホルヒによって1910年4月、ドイツ東部のザクセン州ツヴィッカウの町に登記された。

アウクグスト・ホルヒと一緒に「ホルヒ」を退職した技術者のアウグスト・ヘルマン・ランゲはすぐにガソリンエンジン自動車を設計、製作し、3ヶ月後には新車ができあがった。

そしてアウグスト・ホルヒはアルミニウム製エンジン、シャフトドライブ、耐久性を重視した歯車などの開発に尽力した。

ガソリンエンジン自動車を日常的に使えるようにするため、技術の開発に生涯を捧げた。

そうした努力が実り、「国際オーストリア・アルペン自動車レース」で1911年に「アウディ」として出場し、自身の運転で優勝した。

また次の年にも、国際オーストリア・アルペンランに3台で出場し、チーム賞を獲得。1914には同じく国際オーストリア・アルペンランで5台が上位を独占するという抜群の成績を納めた。

こうした輝かしい成績の成果もあり、創業から4年もしないうちに「アウディ」の名は世間に広まるこことなった。

この結果にアウグスト・ホルヒの技術と開発には糸目をつけないという姿勢と他社よりも速く、実用性と信頼性を兼ね備える自動車を作りあげるという信念が垣間見える。

今日の自動車は何千キロも故障せずに走り、時速100キロ程度ならどの車も出せ、我々はそれを当たり前として自動車に乗っているが、その当時はまだ自動車の歴史がまだ浅い1910年代において、他社よりも速く走れる自動車というのは技術力の高さの証明になり、また、何千キロもの距離を故障せずに走れるというのは信頼性に直結する部分であった。

アウディがレースで強いのは今日まで続いており、世界耐久レースで有名なル・マン24時間耐久選手権では2000年から撤退する2016年までの間に13回もの優勝を飾っている。このことからもAudiがレースを実験場と考え、市販車にフィードバックしていく姿勢が受け継がれている。

自動車の性能の良さをレースで証明するというのは今でも続いており欧米では今なおそのレースの結果いかんによってメーカーのブランドイメージや信頼を決定している消費者もいる。

日本ではあまりモータースポーツが盛んなイメージはないが、欧米ではゴルフの話題や人気スポーツと同じようにモータースポーツの話題が出るほど欠かせない話題の1つになっている。

アウグスト・ホルヒはそういった消費者の心理からモータースポーツがいかに重要であるかを早くから意識していた。

「アウディ」は数々の優勝や賞を手にしたが、第一次世界大戦が始まったことによって、ドイツの自動車業界が窮地に追い込まれてしまう。

そして、第1時世界大戦にドイツが敗戦国になった事によって、アウディの経営は急激に苦しくなってしまう。生産台数は第1時世界大戦前に比べて3分の1程度にまで落ち込んでしまった。

そしてそんな中、技術者のアウグスト・ヘルマン・ランゲが心臓発作によりこの世を去ってしまった。そのことから急な社内編成が行われ、直列8気筒ガソリンエンジンを搭載した「タイプR」という車を世に出し、「ホルヒ」と同じように高級車路線に変更していったが、その頃の高級車市場は「ホルヒ」の独壇場であり、敵うわけもなく、最終的には「DKW」によって買収されることとなってしまう。


その時代は銀行も倒産するような不景気の時代で自動車メーカーも1つでは生き残れないということから4つの自動車メーカーが結束することになった。

資金繰りが苦しくなった4社が結合し、「アウト・ウニオン」が結成され、それが今日のAudiに至る。

そして1932年6月、アウディのもととなる「アウト・ウニオン」という自動車メーカーが誕生した。

「アウト・ウニオン」とは日本語で「自動車連合」という意味で4つの自動車会社が合併して1つの法人となった。

その4つの自動車メーカーとは、「ホルヒ」「アウディ」「DKW」「ヴァンダラー」である。

この4社の輪がアウディの少しずつ重なり合う銀色に輝く4つの輪「フォーシルバーリングス」になったのである。

4社にはそれぞれ弱いポイントがあり、例えば『アウディ』は高級車部門で『ホルヒ』の八分の一しか生産できずに販売台数を拡大できずにいた。

『DKW』はオートバイで成功していたが、電気自動車の失敗で自動車部門は今ひとつぱっとしていなかった。

『ヴァンダラー』は2人乗り小型車『ピプヒェン』が庶民の実用車として定着していたがより収益を増やすために高級車市場に勝負をだしにいったが、

『ホルヒ』の独壇場である高級車市場ではまったく太刀打ちできなかった。

このように、高級車市場で盤石の『ホルヒ』以外の3社はそれぞれに問題を抱えていた。

そこで、ザクセン州のザクセン州立銀行が主導して『ダイムラーベンツ』に対抗できる自動車メーカーを作り出そうという動きが持ち上がり、

4社の強みを活かすことで自動車産業における主導権争いに参加できるようになったのである。

ホルヒ

『ホルヒ』は高級車市場では名が通っていた。

ホルヒ〜Audi創業者によって創られた高級車メーカー〜

「ホルヒ」は「ベンツ」を退職したアウグスト・ホルヒによって1899年にドイツ西部のノルトライン ヴェストファーレン州ケルンに設立された。

創業者であるアウグスト・ホルヒは技術開発や自動車レースに熱心に取り組み、資金に糸目をつけずに開発に没頭しすぎたあまり1909年に解雇されてしまう。

2人はアウクグスト・ホルヒとは違い、経営面を重視して自動車製造に励んだ。

アウグスト・ホルヒが去った後、ガソリンエンジン自動車の設計に当たったフィリッツ・シーデルと技術担当のハインリッヒ・ポウルマンノ2人によって引き継がれた。

そうした経営になってからも「ホルヒ」の自動車はドイツで最も品質が高いと評価され、そのことは1930年代半ばのドイツでの高級車市場において44パーセントものシェアを得ていたことからも評判の高さがわかる。

売上においても1914年からの4年間で5倍以上に増やしたことからも経営の堅実な成長がうかがえる。「ホルヒ」はその品質の高さから高級車としての地位を確実に築いていったのである。

1920年にはゴットリープ・ダイムラーの息子であるパウル・ダイムラーを設計者として迎えた。

パウル・ダイムラーの代表作として今日では見ることのない「直列8気筒ガソリンエンジン」があり、そのエンジンは顧客の手に届く前に厳密な検査を受けさせられた。音響室に運ばれ騒音が基準値以内に収まっているか、エンジンを全速力で40分間回し続ける試験、1時間に及ぶ試運転によって十分に品質が確かめられた。

その成果が1926年のベルリンモーターショーで公開された高級車「ホルヒ303」にあらわれており、静寂性に優れるなどの高品質であるのにもかかわらず、ベンツなどに比べると低価格であったため、高い評判を得た。

こうしてパウル・ダイムラーの設計した8気筒ガソリンエンジンはその品質から高い評価を受けるまでになった。

また、アウグストホルヒの在籍時とは違い、自動車レースには興味を持たなかったが、自動車の優雅さや美しさを競うコンテストでは常連であった。

ヴァンダラー

小型車では『ヴァンダラー』の『ピプヒェン』の名で知名度をあげていた。

 1885年「ヴァンダラー」はドイツ東部のザクセン州ケムニッツで自転車修理の仕事として創業された。その後、自社で自転車を製造するようになり名を「ヴァンダラー」とした。そのほかにも工具やタイプライターの製造も行った。

1902年になるとわずか1.5馬力のエンジンを自転車のフレームに取り付けてオートバイを作った。あまりに非力で50キロも出なかったが、数年後には4馬力とし80キロを出すまでになった。

その後、1913年に1.2リッター4気筒エンジンを積んだ2人乗りの小型自動車、通称「ピプヒェン」を製造し、それがドイツ国民の足として親しまれ「ヴァンダラー」の社名を有名にすることになった。

「ヴァンダラー」のオートバイ部門はタイヤ会社での経験を買われ1928年に「ヴァンダラー」にやって来た、フォン・オルツェンによって売却された。それは世界恐慌を乗り切るための戦略だったにしてもとても思い切ったものだったと思う。

またフォン・オルツェンは自社の独自性にこだわるのではなく、良いものはどんどん取り入れようという、当時のドイツの自動車産業にしては珍しい考えを持っていた。

そのこともあり、フォン・オルツェンは「ダイムラー・ベンツ」を訪れその際に「ダイムラー・ベンツ」で技術部長兼取締役であった、フェルディナント・ポルシェ博士と知り合うことになる。フェルディナント・ポルシェ博士は今の「ポルシェ」の創業者でもありその人が「ベンツ」で働いていたと思うと何とも面白い。

そしてフォン・オルツェンはポルシェの設計事務所を立ち上げたとも言われている。

その後フォン・オルツェンとフェルディナント・ポルシェは世界恐慌を乗り切るためにポルシェが「ホルヒ」のために設計した直列6気筒エンジンの技術を生かし2台の高級車を発売した。

しかし世界恐慌という大きな波には勝つことが出来ず経営が行き詰まってしまう。

そして「アウト・ウニオン」のうちの1社としてやっていくことになる。

アウディ

『アウディ」も販売台数には苦しんだものの、技術には定評があった。

「アウディ」は「ホルヒ」を追い出されたアウクグスト・ホルヒによって1910年4月、ドイツ東部のザクセン州ツヴィッカウの町に登記された。それは「ホルヒ」がある同じ町の通り向かいであった。当初はホルヒの名を社名に入れようとしたが、「ホルヒ」社から同じ名を使うことを拒否され訴訟によって使うことができなくなってしまった。そのことからドイツ語で「ホルヒ」とは聞くという意味であり、同じ「聞く」という意味をラテン語で「アウディ」であったため社名に採用した。

アウクグスト・ホルヒと一緒に「ホルヒ」を退職した技術者のアウグスト・ヘルマン・ランゲはすぐにガソリンエンジン自動車を設計、製作し、3ヶ月後の7月には新車ができあがった。

翌年の1911年に国際オーストリア・アンペルランに出場し見事、優勝を果たした。翌年の1912年以降も国際オーストリア・アンペルランにおいて3台の「アウディ」によるチーム賞獲得、上位を独占するなどといった輝かしい結果の成果もあり、創業から4年もしないうちに「アウディ」の名が世間に広まった。


DKW

「DKW」はオートバイ販売で抜きん出た知恵を見せ、「アウト・ウニオン」の中核的な存在になった。

「DKW」は1904年にドイツ東部のザクセン州ケムニッツに蒸気ボイラーの組み立て工場を操業したことが起源となっている。

第1次世界大戦中のドイツは燃料不足だったため、そのことに目をつけた創業者のラスムッセンが蒸気機関の技術を使うことはできないかと考え、蒸気自動車の製造を試みた、だが蒸気を作るためには大量の水と石炭が必要なため、自動車としてはサイズ的にも無理があり、水や石炭を補充するための場所もガソリンスタンドよりも広い敷地が必要であったし、まだ各地へのインフラも整っていなかったこともあって、この計画は失敗に終わった。

 第1次世界大戦が終わった1918年、ラスムッセンは排気量25ccの小型2ストロークエンジンの設計を設計者のヒューゴ・ルッペに依頼して、自転車用の補助エンジンとして出したところ大ヒットした。

その自転車用補助エンジンの成功が「DKW」を急成長させ、1920年代末になると、オートバイの売れ行きがドイツ国内で販売されている数の3分の2にまでになった。

またラスムッセンは会社の運営能力に長けており、ファンクラブの設立、映画への協賛、タバコの販売などにも積極的に取り組んだ、そうしたこともあって「DKW」は1928年に世界最大のオートバイメーカーとなり、その年「アウディ」を買収した。

1つの会社になったが、それぞれの特徴は存続させ、それぞれの社名を残したまま事業を行う形をとった。

各々の特徴は守られたが、骨格となる車台、エンジン、変速機、空気力学的な技術などは、全ての各車で同じように使われた。

こうして生産効率が圧倒的に高まり、開発や製造のための経費が大幅に削減できた。

また、本来は顧客の注文を得てから製造する受注生産だったのを、あらかじめ、生産しておく大量生産の手法をDKWのF7という車種から採用した。

自動車の大量生産はヘンリー・フォードによってアメリカで行われており、それを見学しにポルシェなどの一流メーカーが訪れ、その生産性を自社のものにしようとたくさんのメーカーが躍起になった。

これは今日では当たり前の手法だが、ドイツでは19世紀にガソリン自動車が発明されて以来、注文生産というのが主流であったため、ガソリンエンジン誕生の頃から変わらない手法がアウト・ウニオンによって変えられ、自動車製造法の近代化が進んで行ったのであった。

これがアウディのマークが4輪である理由である。

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